陳腐なジェンダーロールへのささやかな抵抗
- 雨宮 英介|AMEMIYA, Eisuke
- 2020年5月9日
- 読了時間: 9分
小鳥さえずりサイトで「男性も男性性という暴力被害に遭っているでしょ」との書き込みがあり、「うん、確かに・・・」と感じましたので、ブログにも書いてみようと思います。
わたくし(雨宮)は、生まれつき「ステレオタイプにアンテナが働きにくい」という鈍感性(空気読めない性)を備えているようで、そのおかげでこれまでの人生で度々苦労してまいりましたが、各種ステレオタイプ起因性心理危機が流行している昨今では、そういう体質に生まれてラッキーだったなと感じます。
【悲報】念のため申し上げておきますと、アンテナはステレオタイプ以外の局面でもあまり働きません。
そもそも個人はそれぞれが全く違うのに、同性(同じ性同一性)で徒党が組まれると、どうしてそこまで内部均一性が即座に確立するのか、わたくしにはさっぱり理解できません。この辺りが「空気読めない」と言われる所以ですが、わたくしからすれば「なんでそういう言外の情報を共有できちゃうワケ?」というのがわたくしの率直な心境です。あんたたち昨日のうちに一緒に予習してきたでしょ?
わたくしは生物学上は恐らく男性で(性染色体を精査した訳ではありませんので、遺伝学的にも男性であるかどうかは未確認ですが、今のところ男性ということで通っています)、周囲が勝手に付与するジェンダーロールも男性のそれであることがしばしばです。勝手に付与すんじゃねえよと思いますが。戸籍上は(まだ直接確認したことはありませんが、恐らく)男性として定義されており、普段の生活でわたくしを目撃した人々はわたくしを概ね「男性」として認識しているような気がします。でも確証はどこにもありません。わたくしが勝手にそう思い込んでいるだけです。
(↑こういうことを考えている時点で「めんどくせえ」と思われるようですが、そんなん知らんわ。)
最近声高に「多様性だ」「ダイバーシティだ」などと唱えられることしばしばですが、多様性論を唱える時点でその地盤には根深くステレオタイプが染み込んでいるということなのです。「暴力的男性性」「それに象徴されるステレオタイプ」は「まだ元気に健在だよ!」と代弁しているようなものです。従ってわたくしにはそれらのワードが空々しく聞こえてなりません。なんでわざわざそんなこと概念提唱しなきゃいけないんですか?念仏唱えないと成仏できない系ですか?羊を考えたら夜眠れるんですか?
わたくしがこんな体質に生まれた割に、わたしの生み・育ての親はばっりちステレオタイプそのものな人たちでした。なので、わたくしは親の在り様に甚大な疑念を携えて生きてこなければなりませんでした。感想を一言で申し上げれば「ホンマめんどくさい」です。ライフステージの事ある毎に「ステレオタイプ的にはオマエの今の年齢ならこういうダンジョンをクリアしていて然るべきであるな」のようなことをしゃあしゃあと言います。放っとけよ。
ところが、彼らがそのダンジョンをクリアできているかというと、残念ながらそうでもありません。何せ、自分らの子が(わたくしのような)ステレオタイプの在り様から悉く逸脱した存在として立派に成長してしまった訳です。思いどおりにならなくて残念でした。
否、思うに、わたくしの今の在り様は「本来、親自身がそうでありたかった像そのもの」なのではないか?とときどき思います。わたくしはいつの間にか親が果たせなかった「ステレオタイプを意識的・無意識的に無視し、好きなようにやる」を代理体現している可能性は、なきにしもあらずです。知らんけど。 わたくしは親に向かって「そんなにステレオタイプのようであることがイヤなら辞めちゃえば?」と度々述べました。しかし、結果的に彼らはステレオタイプが示す在り様を忠実に辿ることを「選んだ」のでした。わたくしのセールスは失敗しました。少しだけ残念です。 もうお解りかと思いますが、わたくしが彼らに向かってかように述べるのは、彼らから「ステレオタイプの様であることの苦悩」(愚痴)を聞かされてきたからです。彼らはステレオタイプそのものであることが苦痛だったのです。半ばわたくし(子)という存在(できあがりはさておき子をもうけたという事実)がそれを合理化するアイテムの一つだった訳ですが、その末に、悉くステレオタイプからはかなり逸脱した作品ができあがりました。わたくし個人的には大変喜ばしいことだと自負しております。
「ステレオタイプから逸脱する」ことには、それ相応の胆力が必要です。ステレオタイプに苦しんでいる人々は、わたくしのように自由奔放な存在を見るとかならず嫉み妬みの類を送信してきます。本当にめんどくさいです。その度にわたくしは「そんなつらいんならやめちゃいなよ」と心の中で唱えるようにしています。この作業がなかなかめんどくさいです。精神力が必要です。
わたくしは誰かから「アナタは多様な存在の一つだ!」のように言われる筋合いはありません。元からわたくしは一個人です。勝手に分類定義すんな。ジェンダーロールにも当然ステレオタイプがあるわけですが、そんなの勝手に付与すんな。
わたくしがカウンセラーとしてすっかり失格なのは生まれる前から解っていますが、敢えて失格者として申し上げれば「小職の前でゆめゆめステレオタイプが正しいなどと申すまいぞ」ということになります。時折わたくしがかように発している空気を読めずに、わたくしの面前で既存のステレオタイプを滔々と宣う方がいらっしゃいます。鴨が葱を背負ってやってくる、とはこのことですね。
「そういうステレオタイプが既存であることは承知しているんですけれども、あなたがここでわざわざそれを宣うということは、そのことであなたご自身が相当な苦痛を感じていらっしゃるということでしょうね」
・・・とフィードバックしてしまい、その直後に後悔します。こういうことを脊髄反射的にフィードバックしてしまうのは、カウンセラーとしては大いに失格です。
しかしながら、恐らくわたくしはどれだけ学術的に忠実なカウンセラーになったとしても(そんなのになれる訳ありませんが)上記のように言わずには居れないだろうと観念しています。これは他ならぬわたくし自身がこれまでの人生の大半をステレオタイプへのレジスタンス運動に費やしてきたからです(大袈裟)。これに「陰性感情逆転移」(カウンセラーの側が自分の中に抱えている問題を相談に来られた方との関係の上で再現してしまい、負の感情が伴うこと)という専門用語名称を付与する方も居られます。まぁ確かにそうとも言えますが、転移(カウンセラーとカウンセリングを利用される方との間に、それぞれの中に潜んでいる何かに触発されて感情のやり取りが生じること)の一つも起こらないようなカウンセリングは、カルチャーセンターでカウンセリングを中途半端に囓ったオバハンが、ひたすら相手のいうことをオウム返しし続ける、みたいなのと大して変わりません。
【註】念のために申し上げておきますと、著しくエネルギーが低迷している方とのカウンセリングではできるだけ転移が起こらないように気を付けますし、初対面でいきなり転移を起こすような真似はしません。それでも起こってしまうことはあり、まったくゼロにできるという確証はありません。
さて、自身が男性性を強要される被害に遭った男性の多くが、その苦痛に直面することから逃避しています。それに直面することは大変な労力を要しますし、痛みが伴いますし、なにより、今のその人自身の在り様が根底から否定される可能性があるからです。そして、直面するよりも「自分のようなモノ」(劣化コピー)を周囲に少しずつ増殖させることに勤しみます。これは恐らく、大きな戦争があるもっと前から日本文化の中に埋め込まれていたものでしょうから、歴史はかなり長く、数十代前くらいから連綿と継承されてきたようなスパンで生き存えている負の文化だとわたくしは考えています。興味深いことに、これはどの文化圏でも宗教や気候や「農耕なのか狩猟なのか」にかかわらず多かれ少なかれありがちな被害のようですね。男性というのは、生物学的(遺伝学的)に「そうなりやすい」生き物として生を受けているのかもしれません。もしそうだとすれば、それに抗えるのは理性・知性・文化でしょう。ですので、理性や知性を身に付け、文化に触れることは、大変重要な生きるための作業なのです。
情報が氾濫するようになり、良くも悪くもステレオタイプ「のようではないもの」「のようではない在り様」や「カウンターステレオタイプ」など、各種の可能性が存在することが広く知られることとなりました。それが広がるほど、逆にもっと旧い観念にしがみつこうとする勢力も台頭してきます。こうしたカウンターが生まれることは、世の常なのかもしれません。
わたくしは偶然にも(生来的に)社会構造にあらかじめ敷衍されているステレオタイプが「わからない」体質であったことと、偶然にも(後天的に)養育者がステレオタイプを体現しちゃってる人たちであったことが重なり、かようなスタンスを採ることとなりました。試しに「ステレオタイプの様であること」を試してみたりしたことも度々ありましたが、どれも定着しませんでした。無理みたいですね。それが判明した後は、接近してくるステレオタイプにいち早く気付けるようになりました。
前述のとおり、わたくしは公衆の面前では/体面上は戸籍上男性であり、ジェンダーアイデンティティも男性ということになっていますが、かような人生を送ってきた所為でしょうか、最近「内なるおばちゃん性」がどんどん巨大化していくのを感じます。しかも大阪の摂津エリアに密かに潜在するど厚かましいんだけど普段はそれをうまく隠している系のおばちゃんです。最近、みうらじゅん氏が「僕はね、もう最近『おばちゃん』だから」と仰っています。非常に親近感を覚えます。その感覚すごく解ります。 しかしわたくしは見た目からしてどう見ても男性にしか見えないようで、非常に悩みます。どうにかして見た目から入っても「あ、この人おばちゃんやんか・・・」って判ってもらえるようになりはしないだろうか?と真剣に考えています。摂津のおばちゃんは豹柄の服は着ませんし、歳を取ってもパンチパーマを当てたりしません。ちょっとヴィジュアル的には無個性的なのです(薄っすいのです)。そこが困ったところです。ヴィジュアルから入るのはダメそうですので、メンタリティを鍛錬したいと思います。とりあえず、ポケットの中にいつでも出せるよう飴ちゃんを忍ばせておこうと思いますが、「今だ!」というとき(近くにいる幼児がぎゃん泣きしているときや、餌付けしたい同僚がいるときなど)に限ってポケットには飴ちゃんが入っていません。まだ修行が足りないようです。
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