先生の教えることは全て正しいのか?
- 雨宮 英介|AMEMIYA, Eisuke
- 2020年1月26日
- 読了時間: 5分
最近たいへん由々しき問題だと思っていることがあります。それは「教えられたことが全てだ」と思っている人が非常に多いことです。
何かしら教育に携わる人々は、全て「自分の言っていること・教えていることが全てではない・全て正しい訳ではない」ということを、常々弁(わきま)え、それを常々教える対象である相手に説く必要があります。が、どうやら最近はそういうことを全く教えないばかりか、教える側が「自分の言っていること・教えていることは全て正しい」などと思い込んでいる様相すら感じられ、大変危険です。そもそも、一個人が宣うことはほぼ主観です(当然この記事も主観です)。しかし、そこで「立場が正しさや客観性を担保してくれている」などと思い込んでいる人が割とたくさんいることを、大変危険だと感じています。
小学校の現場でここ数年頻繁に聞こえるのは、「学校の先生や親の言うことは聞いていないが、ネットで検索したことやYoutuberの言っていることは無条件に受け入れている」という現象です。某検索エンジンのことを「先生」と呼ぶ風潮があることも、それを如実に示しているように思えます。情報を授けたり取り入れたりするときそこに生々しい感情が差し挟まらないことが、さも「正しさや客観性を担保している」ものとして通用してしまっているようです。これほど無根拠なことはありません。そんな確証はどこにもありません。
どちらが先に現れたのか、今となっては最早知る由もありませんが、生々しい人間が直接訴えることよりも、何かしらの媒体を経由したものの方が「正しそうだ」という風潮が定着し、かたや、感情や情緒が混入したメッセージには接触したくないという内閉的空気感もすっかり定着してしまいました。言わずもがなですが、電子的情報網やそれを操る各種道具が浸透したことと不可分ではありません。
リテラシーの高い人は承知のことですが、某検索エンジンが叩き出してくる検索結果は、人為的に加工されたものばかりです。加工作業の多くは商業的利潤追求と紐づけられています。それに疑念をもたず盲従することが「正しい」と信じて疑わない人が結構たくさんいて、びっくりします。これは電子的情報網に限ったことではなく、仲が良いとお互いに思い込んでいる閉じられた関係性の中だけで限定的に流通する情報を盲信したり、特定集団に属していることだけで無条件に「正しい」と盲信したりする人がかなり多くなりました。非常に危険極まりないことです。
「学校」という閉鎖空間の中で取り交わされている情報は、ほぼ全てが教職員によって価値付けられており、教わる側がその真偽を確かめる方法がほぼありません。「ありません」というより、剥奪されていますし、疑念を持たないことが「適応的だ」くらいに、実(まこと)しやかに囁かれています。そこで不適応感を持てる人はごく一部で、多くの人々(特に日本文化をネイティヴな文化背景に持って育った人)は「適応」する方を無条件に選びがちです。閉じられた空間の中で「上位」と定義された人が言うこと/教えることが「正しいのだ」と教えられてしまいます。
軍隊的でわたくしは心底嫌いです。
これは単なる「自作自演構造」に他なりませんが、閉じられてしまっているが故にそこに疑念を持てる人はかなり限定されてしまいます。だからこそ、情報発信者は自らの宣うことにも疑念を持ちなさい、と教えるべきなのです。ここはあくまで閉鎖空間であり、この外にはもっと広い空間が無限に広がっているのですよ、と教えなければなりません。
最近は(恐らくいろんな意味でのデフレ経済の所為で)とにかく「サボる」ことが美徳とされつつあります。何かの働きをするにしても、できるだけ労力を注がないでやるのが美しいのだ、という悪しき風潮が拡大しています。これは学校教育にも通ずることで、教える立場にある人々の多くが「私の宣うことを鵜呑みにするでない;疑え」と教えることをサボっています。だって、疑われたらそれを反証しなきゃいけなくなりますからね。そんな面倒なこと、デフレ経済下ではやるだけムダってもんです。
幸いなことに、わたくし自身は学校教育の過程で何度か先生から「疑え」と教えられました。数回そういう「教え」を蒙ったので「そうか、先生といえど宣うことが全て正しい訳ではないのだな;そういうものなのだな」と思うことができました。僭越ながら、わたくしもときどき教える側に立つことがありますので、「わたくしの申し上げることが全て正しい訳ではありませんからね〜、みなさんご自身でもいろいろ考えてみてくださいね〜、何なら今この場で反証してくださいよ?」と申し上げるようにしています。ときどき反証してくれる方がいますので、大変よろしきことと感じています。
人間の生々しい感情や情緒をできるだけ排して、情報量を減らしましょうキャンペーンが地球規模で展開され、その結果、疑念を持ってみたり別の角度から見つめなおしてみたりする作業全般も排されようとしていることに、強い危機感を持っています。わたくしも検索エンジンを利用することはありますが、信憑性のある情報源としては信頼していません。検索エンジンが叩き出した情報を盲目的に信じることはまずありません。従いまして、検索エンジンを「先生」だとは全く思っておりませんが、揶揄する意味も込めて慇懃無礼に「先生」とお呼びするようにしております。
さて、前段落の最後の文章に「皮肉」という文脈が埋め込まれていることを理解できるかできないか、いかがでしょうか?「揶揄」「慇懃無礼」と記してもなお、検索エンジン先生のことをわたくしが褒め称えているかのように誤読する方が非常に多いのが現状のようです。「文脈がわからない・わかろうとしない」問題については、別の機会に触れたいと思います。

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